(今日の練習もハードだったな……) 湯船に浸かると、自然と今日の部活動の内容が頭を過ぎった。ハードだったがそれだけ充実していたな、と考えながらばしゃばしゃと顔にも湯を掛ける。目を閉じたまま体を湯に沈ませ肩まで完全に浸かると、全身を柔らかく撫でていく心地よい熱さの湯の感触に体中の筋肉が弛緩していくのを感じる。フー……と肺の中身を吐き切るように大きく深呼吸をする。 そのまま溶け込んでいってしまいそうだった。ずっとこの中に居たい。そんな思いも芽生えたがそういうわけにもいかない。意を決して立ち上がる。ザバァと大きな音が立ち、全身の肌から湯気をほとばしらせながら脱衣所に上がり、清潔に洗濯されたバスタオルで水滴を拭き上げ、パジャマに身を包み、いつもの手順で髪を乾かして、居間に居る両親に声を掛けて階段を登って、自室にたどり着く。そのドアをガチャリと開けた瞬間にビクッと体が痙攣して目が覚めた。 (まずい、今眠ってしまっていたか) 湯船に浸かっているときに寝てしまうのは、いわゆる気絶の状態に近いと聞いたことがある。運動で体が疲れているところにお風呂の心地よさに体がリラックスして血圧が必要以上に下がってしまうことによるという。 今度こそ間違いなくお風呂から上がらなくては。これは現実だと自分自身に問いかけるように確認しながら湯船を出て、先程夢で見たのと全く同じ手順を辿る。 「お風呂出たよ。それじゃあおやすみ」 居間に居る両親にひと声掛けて自室に戻ろうとするが、母さんが変なことを言う。 「お兄ちゃんもうさっきおやすみって言わなかった?」 俺が? 自分の行動を振り返るが、風呂から上がった俺は体を拭いてパジャマを着ていつも通りたっぷり時間を掛けて髪を乾かして、今初めて浴室から出てきた。それは間違いない。さっきのアレは、夢なのだから。 「いや、勘違いじゃないかな?」 「変ねぇ」 首を傾げる母さん。まだボケが始まるには早いと思うけれど若年性の認知症もあるらしいし……と母の心配をする俺だが、母さんの隣に座った父さんは、母さんではなく俺の方を見てきていた。まるで俺の方がおかしいと言いたいかのように。 「……おやすみなさい」 「おやすみなさい」 なんだか解せぬ気持ちもありながら、階段を上り部屋の前に辿り着いた。当然誰も居ないことはわかっていて「はあ、いい湯だった」などと独り言を言いながら扉を開けると。 「えっ?」 「……はあ!?」 なんとそこには人が居た。俺が居た。 「誰だお前は!?」 「それはこっちのセリフだ! というかお前……俺じゃないのか」 我ながら意味不明なことを言っていると思う。しかし俺の姿をしたその人物も「やっぱり……俺だよな、お前」と返してきた。 「どういうことだ……」 「落ち着いて考えよう、ついさっきまでは普通だったはずなんだ……お風呂に入っている間に何か起きたんだろうか」 「俺はいつも通りに体を洗って湯船に浸かって上がってきたはずなんだ」 「俺もだ」 目の前で“オレ”は腕を組み顎に手を当てた。そして俺もまた無意識に同じ体勢を取っていた。どうやらこれは俺の癖だ。予期せず自分のことを客観的に見る機会を得てしまい、自分の癖まで意識させられることになろうとは。 「俺、そろそろ寝たいんだけど」 「それは俺も同じだ」 意見が揃った。そして、お互い考えていることも同じであろう。二人で同じ布団で寝るのか、と。 「一緒に寝るしかないか」 「やっぱり、そうなるよな」 「客人を床に寝かすというのも気が引けるけど、自分に譲るのはどこか腑に落ちないからな」 「ちょっと待ってくれ、そもそもここは俺のベッドなんだけど…」 お互いが自分自身を“本物”と信じてやまないから、どうしたって会話はちぐはぐになる。俺自身はもちろん、もう一人のオレも嘘を吐いているとか騙そうといった意思があるわけではない。それはわかる。 結局俺たちは話し合いの末、同じベッドを半分ずつ使って寝ることになった。一人で丁度の大きさのベッドだ。寧ろもう少し大きいベッドがあれば嬉しいと贅沢を考えたこともある。決してもともと余裕があるわけではないそこに、先に入ったオレに次いで電気を消した俺も潜り込んだ。案の定そこは手狭で、直立不動の状態で二人並ぶのが精一杯であった。 「狭い、な」 「仕方がないだろう」 「いや、文句が言いたいわけではなくて……事実として狭いなって」 「そうだな」 何の解決にもならない実のない会話が途切れて、沈黙が訪れた。何故、こんなことになってしまったのか。考えたところで答えが出るはずはなかった。 「はぁ……」 上擦り気味な声を交えた吐息のようなその声に反応して横を見ると、オレは下がり気味な眉でいかにも不安げという表情をしていた。アクアリウムの青白い光にぼんやりと照らされて、伏せられたまつげにどこか色気を感じ……てしまいそうなのを頭を軽く振ってかき消した。 傍から俺はこう見えているのか。納得のいかなかった他者からの評価を思い出した。 「……無防備ってたまに言われるの、わかる気がしてきたな」 「え?」 「なんでもない」 俺が思わず呟いた一言に横のオレは目を開けた。起こしたわけではなくまだ寝ていなかっただろう、ということはなんとなくわかる。自分自身のことなだけに。 “俺”が二人になってしまって、これからどうなるのか……考えたって答えは出てきそうにない。さっさと寝てしまおう。そう決心して目を閉じた。寝て起きたらもう一人のオレは消えているだろうか。そもそも夢であってくれないだろうか……そう考えていると、「思いのほか鼻筋が通っているんだな……こうして見ると俺って意外と……?」などと声が聞こえてきた。 ……これは、先ほど俺が隣で目を伏せているオレにそうしたように、隣のオレもこの俺のことを見つめてきていたのだろうか。 「寝ないのか」 「あ、寝るよ!」 そう言って、もう一人のオレが再び目を閉じたことを確認してから俺も目を閉じた。 しかし、こんな状況で寝られるわけがない。俺は人といると寝付きが悪いたちだ。自分自身……とはいえ、別の人間(いや同じなのかもしれないが……)がすぐ横にいては落ち着いて眠りに就くことなどできなかった。 隣のオレも同じ状況のはず。静かな吐息は聞こえているけれど、恐らく寝付けてはいないと思う。 規則正しい呼吸音にひっそりと耳を澄ましていた、そのとき。 『ピカッ!』 閉じている瞼越しに明るさが感じられ、驚いて目を開ける。電気が点けられたわけではない。何より一瞬のことだった。 「今の……」 「もしかして……」 二人で軽く体を起こして目を見合わせていると。 『ゴロゴロゴロゴロ……』 「うわっ!」 遥か遠くから、地面ごと揺れるような重低音が鳴り響いてきた。気付いたらお互いの手をぎゅっと握り合っていた。 「お前も、雷が苦手なのか」 「当たり前だろう」 当たり前、か。もう一人のオレが発した言葉を噛み締めた。確かに俺自身なのであれば苦手なものが共有であるのは当たり前かもしれないが……何より“俺自身がもう一人存在する”という当たり前に起こってもらっては困る事態になっていることが問題なわけで――。 『ピカッ ゴロゴロ……』 「「わっ!」」 カーテンの隙間から差し込む閃光にそれまでの思考は遮られた。再び鳴った雷は、光から音までの間隔も狭く距離はそう遠くない気配がした。恐怖のあまり目の前にいるその人物にしがみついた腕に力が籠もる。俺は肩を抱くようにしていて、向こうは俺の胸元に抱きついてくるような体勢になっていた。 (なんでこんなときに……早く止んでくれ!) 恐怖のあまりに全身の力が入り切らず握力が低下しているような手応えがする。手が震えているかもしれないとそのとき気付いた。手元を見ようとしたときに、自分の腕の内側には人がいたということを改めて意識した。 その者は、俺と同様に……もしかしたら俺以上に、体を小刻みに震わせていた。どうにか落ち着かせてやれないかと、背中を軽く叩いてみた。ぽん……ぽん……と一定のペースで叩き続けていると、震えが落ち着いてきていることに気付いた。腕の中の人物も、俺も。 (こうしていると、不思議と落ち着いてくるものだな) 宥めるような行動を取っているのは俺の方であるにも関わらず、その俺の気持ちも穏やかになってきていた。恐怖心が消え去ったわけではない。だけど目の前のものと触れ合っていることが安心材料になっていた。 「怖くないのか?」 「そっちこそ、震えは収まってきたみたいだな」 問いかけに感じたままを返す。それ以上会話は続かなくて、しばらく沈黙が続いた。雨の音だけがサアサアと窓の外から聞こえてくる。いつ雷鳴が聞こえるかと緊張は解けなかったが、しばらく経ってもその瞬間が訪れることはなかった。 「もう収まった……のか?」 「みたいだな」 「「…………」」 そうなってしまうと、今のこの体勢が気恥ずかしい。「悪い」と声を掛けて背中に回していた腕を外した。しかし予想外なことに、空いていた左手は目の前の者に掴まれた。 「もう少し……このままでいてもいいか?」 遠慮がちに問い掛けられたその言葉に、短く「ああ」とだけ返した。そして至近距離で目が合った。 もう雷は鳴っていない。頼りはアクアリウムのほのかな明かりだけ。青白く照らされた頬は冷たそうに見えて、そっと手を添えた。だけどその温度は俺の手をじんわりと温めた。生身の人間だ、と感じた。 目が離せないまま、どれくらいの時を過ごしただろうか。 ――引力に引き寄せられるみたいだった。 目の前で自分の顔をしたその人物がゆっくりと瞼を伏せる、その光景を気色が悪いと感じたっておかしくないのに、熱に浮かされたような妙な感情に支配されたまま、俺たちの唇は重なった。初めての感触に心地良さを感じる暇もなく、その口の感触が ふっ と消えた。途端に猛烈な眠気に襲われて、夢の中に引きずり込まれるようにまどろんでいった。いや、それともそもそも俺はずっと夢を見ていたのだろうか。 ただ間違いなく、目を開けたとき、俺は一人だった。確かな唇の感触だけを記憶に残して。 |