| 付き合えるなんて思ってない。片思いさえできていれば満足。それはそう、彼は私のことを知りもしないんだもの。 恋に落ちてかれこれ一年以上が過ぎている。特段目立つタイプでなければモテるわけでもなかったはずの彼が、いつの間にか後輩とすれ違えば黄色い声を上げられ、同級生からは熱を帯びた視線を向けられるような存在になっている。 いつからそうなったのだろう。少なくとも私が彼を知ったとき、彼は部活で好成績は残していたらしいものの知る人ぞ知るような状況で、成績優秀でもあったらしいことは私も気になるようになってから知ったし、クラスメイトとの好きな人言い合いっこで名前が挙がるのを聞いたこともなかった。 そんな彼が私にとっての好きな人になったのは、あえて要素を挙げるとすれば「横顔が綺麗だった」だろうか。恋とは気付いたら落ちているもの、とはよく言ったもので、好きになった明確な理由やきっかけは存在しなくて、すれ違う度にその姿を見たくなって、横顔が綺麗なのだと気が付いて、気が付いたときにはもう恋に落ちた後だったと過ぎてから自覚した。 名前は愚か同じ学年であること以外は何一つわからない彼のことを知りたくなって、だけどその心持ちを人には知られたくなくて、教室移動のタイミングをメモに残したり、どこの教室に入っていくか不自然にならない程度に後をつけたりして、ようやくクラスを突き止めた。放課後は大きなバッグを持っていることに気付いて、テニス部だということもわかった。彼が人といるときに会話に耳を傾けたけどなかなか名前を知ることはできなかった。 そんな中での生徒会役員選挙。立候補する人たちは偉いなあと他人事扱いで体育館の遥か後方で佇んでいた私は、順番が回ってきて列の前に出て、真っ直ぐ前を見て喋りだす彼に、瞳も心も奪われた。 「保健委員長に立候補します、大石秀一郎です」 大石くん。そう、君は大石くんだったのね。 衝撃でその後の話の内容は何も頭に入ってこなくて、なんだか立派なことを言っているような雰囲気と、凛とした態度と耳障りの良い爽やかな声が印象に残って、頭を下げると同時に起きた拍手に便乗するように大きく手を叩いた。 「名前も知らない人のことを好きな私」が「大石くんのことが好きな人」になってしまった。すれ違う度に横顔だけをこっそり盗み見ていたのに、心の中で「大石くん、おはよう」と話しかけるようになり、演説台の前で見せていたようなあの真っ直ぐな視線を、直接浴びてみたいと思うようになった。 だけどそれは贅沢な願いで、大石くんは私に視線を向けてくることすらなくて、ましてや私の名を呼んでくれるだなんて、ありえるはずがなかった。彼は私のことを知りもしないのだから。 すれ違う度に目線を送り、こっそり放課後の部活の練習を見に行って、朝礼で保健委員長からの連絡があるときだけやたらと姿勢よく首を伸ばす。そんな日々を過ごしているうちに学年が変わった。クラス替えで教室が大きく離れて、すれ違う頻度が明らかに減った。教室移動のタイミングが被るときに意図的にルートを選ぶまでしないと、至近距離に入ることもできなくなった。朝礼台の上と校庭の遥か後方、テニスコートの中と外……これが学年が変わってからの大石くんと私の距離感だ。 だけど、大石くんの名前を聞く頻度は圧倒的に増えていた。去年は名前を探るのだって苦戦したのに。とはいえ年度初めは「何あの髪型!」なんて陰で笑われ、「いい人だけど恋愛対象にはならない」なんて扱いばかり受けていた気がするのに。いつからだろう、彼が私以外からの視線も多く受けている人気者であると感じるようになったのは。テニス部で全国優勝を果たしてからだろうか。日本代表のユースメンバーに選ばれてしばらく不在だった公休明けあたりからだろうか。それとも私が気付くのが遅れただけでもっと前からだったのだろうか。「大石先輩だ」とキャッキャとはしゃぐ後輩女子の集団を見かけたり、「将来結婚するなら絶対大石くんだよね」なんて会話を耳にしたり。 彼が目立つ存在になってから興味を抱くようになった人たちに対して、「私はずっと前から好きだったのに!」なんて不毛な思考を浮かべてしまう。そんなことを訴えたところで、私は彼にとっての何者でもないのに。私も所詮、一方的に見つめるだけの立場だ。 ――そしてその状態にも終止符を打つときが来た。校長先生の祝辞を右から左に聞き流しながら、私はずっと大石くんのことを考えていた。 彼は外部受験をし、高校から他校へ通うらしい。らしいと言うのは、本人から直接耳にしたわけではなく、風の噂で――おそらく何人も経由して――私の下に辿り着いたに過ぎない情報だから。 こうやって終わっていくんだな。一年以上、話すことも対面することもないまま、一方的に横顔を見つめてコートで走り回る姿を見守ってきた日々が。それだけでドキドキして、胸が一杯で、いつか視線を向けてもらえたらと願いながらも、目が合いそうになると恥ずかしさで顔を少し背けてしまう、そんな不毛な片思いも、まもなくおしまいだ。 (……一回くらい、会話してみたかったな) ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。何の実りもないまま一方的に見ることができれば満足だったはずが、急に欲と後悔が押し寄せた。 人は失って初めてそのものの大切さに気付けると言うけれど。どうして今まで、その考えに至れなかったのだろう。もっと早く、頻繁にすれ違えているうちに、彼を遠い存在だと感じてしまうより先に、卒業して別の学校になってしまう前に――。 (まだ、間に合うんだ) 気付いたときに、「蛍の光、斉唱」と聞こえた。練習の通りに体は動いた。寸分の狂いないタイミングで隣の同級生と同時に立ち上がる。前奏が流れ始めてまもなくすすり泣く声もどこかからか聞こえてくる。口は勝手に動いた。中学校三年間の思い出を振り返りながら歌うつもりだったその歌を、今これから起きようとしている未来に向かって考えを馳せながら紡ぐことになろうとは。 歌い終えて体育館から退場しながら、いつ、どこでなら、大石くんに話しかけられるだろう、ということばかり考えていた。クラスのみんなと黒板に落書きしたり写真を撮ったりしながらも、気持ちが廊下の遥か反対端に近い教室の彼に向かっている。 じゃあまた二週間後ね、なんて気楽な挨拶を交わしたまま、正門で足を止める。いつも同じ通学路で通っている子たちに、どうしたの帰ろうよ、と言われたけど、ちょっと用事を思い出したなんて適当なことを言って校舎に戻った。三年二組の下駄箱を確認して、大石くんの外履きがあることに胸を撫で下ろした。良かった。まだ学校には居るみたいだ。 しかし……人気者の彼のこと、きっと人に囲まれているだろう。個人的に呼び出したいと目論んでいる子もいるかもしれない。一言で良いから声を掛けたい。そんなタイミングは作れるだろうか。本来そんなに難しいことではないはず。だって私は別に、心に秘めたこの想いを伝えたいとまでは考えていないのだ。一度でいいから、その視線の中に入りたい。そして、君を正面から見つめてみたい。それ以上の贅沢なんて望めないから、でもせめてその程度の可愛いワガママくらい叶えさせてほしい。 靴を脱いで隅に揃えて、一度は袋にしまった上履きを取り出して履いた。もう最後だと思いながら去ったフロアに戻ってきた。心臓が頭に響くくらい大きく弾んでいるのは、勢いよく階段を上りきったからだけではないはず。 三年二組の教室をこっそりと覗く……けれど、中には誰も居なかった。理路整然としていて、とても綺麗な教室だった。隣の教室からは女の子たちの話し声が聞こえる。 廊下を歩き進めると、遥か向こうに人の群れが見えて、なんだか賑やかな笑い声が聞こえてきた。 大石くんが人に囲まれている場面は度々見かけたけれど、笑いの中心にいるタイプではない。きっと関係ないだろうと思いながらも目を凝らすと、え、輪の外に立っている後ろ姿は、大石くんでは。 ドクンドクンと弾けそうなほど大きな心音が鼓膜に鳴り響く。足取りがふわふわする。少しずつその輪に近付いていって、気のせいではない、やっぱり大石くんだ、と思ったところで彼の声も聞こえてきた。 「英二、もういい加減テニスコートに行かないと。みんな待ってるんだぞ」 「ごめんごめん、これで最後だから!」 そう答えたのは、菊丸くんだった。女子生徒でできた輪の中心で卒業アルバムにペンを滑らせている。はしゃぎ回る女子たちの声の狭間に「まったく」とため息交じりの低音が紛れた。すぐ斜め横を見上げる。大石くんだ。視線の先を変えないまま、顔が見られる位置まで踏み込んだ。 やっぱり、 (綺麗だ……) と、思った。 その横顔が。これまで何度もすれ違って、その度こっそり盗み見てきたその顔だ。 きっと今しかない。横顔に向かって呼びかけた。 「大石くん!」 初めて、その名を声に出した。 大石くんは、振り向くと私の顔を見て、困惑したように見えた。それはそうだ。声を掛けてきた人が自分の知らない人間であったら誰だって反応はそうなる。私が逆の立場だったら絶対そう。だけど大石くんはすぐに固まった表情を崩して「なんだい」と微笑んだ。ああ、これが、ずっと見てみたかった君の正面からの笑顔なんだ。 いざ本人を前にして、言葉が出ない。勇気を出して「ずっと好きでした」と伝えて砕けちるか、「今までありがとう」なんて言って自己満足に浸るような終え方をするか、「卒業おめでとう」とだけ伝えて爽やかにこの恋からも卒業するか。いくつかパターンは想定したけどもあとはその場の雰囲気でどれを言うか決めようと思っていた。どうせ無難なとこに落ち着く、と想定していたのに。 ここまで来てしまったら想いを伝えた方がいいんじゃないかとか。だけどそれには勇気が足らない気もして。どうせ何をどう伝えたところで私の失恋は確定していて、あとはその畳み方をどうするかだけの問題だとはわかっているのに。それでも想いを伝えるのが怖いのは、頭の中の「想像」に「現実」が追いついてくるのは、「想像」を「空想」として残しておくままとは大きく違うからだ。 だって、伝えてしまったら、私だけの問題だけではなくなる。本物の君が関与してくる。 口を半開きにしたまま言葉を発しない私に眉尻を落として困った風に微笑みながら「大丈夫かい」だなんて言う。そんな表情もするのね、君は。もしかしたら遠巻きには見たことがあったかもしれない。でもこの顔は、私に向けられているのだ。 やっと視界に入ることが出来た。 (……フラれたくないな) このまま、楽しくて幸せでドキドキした思い出だけで、綺麗にこの恋を終わらせよう。そうだ「これからも頑張ってください」と伝えよう、と、これまでにシミュレーションした限りは浮かばなかった言葉が脳裏に降りてきた。私は一つも、未来に繋がるような言葉を大石くんに掛けるという選択肢が浮かんでいなかったのだ。 いざ伝えよう、と私が口を開くのと大石くんが声を出すのが同時だった。一瞬意味がわからなくて瞬きを繰り返してしまった。 「いつも応援してくれてたよな」 …………え? そんな、まるで私のことを認知しているかのような言葉を告げる。おかしい。そんなはずはないのに。だって私は今日君に初めて話しかけたし、これまで関わる機会はなかったし、私は学校生活において名前が挙がるような活動も活躍もしてないし。 先程聞こえた言葉を頭で繰り返して、別に誰に対してでも言える言葉だ、と理解した。なるほど。これは大石くんなりの処世術かもしれない。一方的に応援されていることが多いからこそ、見ず知らずの人間に声をかけられたら角が立たないようにそうやって寄り添う言葉を告げている、と。 それとも本当に、姿だけでも認知されていた可能性はあるだろうか。でも、それでも、少なくとも私は大石くんの「特別」ではない。その証拠に、大石くんは私の名前を知りもしない。 「これまでずっとありがとう、 」 ――大石くんが私の名前を呼んでくれるだなんて、夢でもなければありえない。 だからこれは夢なのだ、と、信じられない気持ちで自分の頬をつねって、私は思わず笑いながら泣いてしまった。 |