* 諦めないで、負けないから。 -part.7- *












他のレギュラー陣が廊下でやり取りを交わしていたその時、
リョーマは…ただ一人、勝郎と対面していた。
その勝郎はというと、少し前にリョーマに叩かれたその位置から微動だにしていなかった。
瞬きは一応していたものの、本当に必要最低限しかしていない、という状況だった。

その瞳には、いつも見せるような輝きはなく、闇が広がるばかりだった。

「ねえ」

リョーマの声にも、勝郎は反応しない。
リョーマは眉を潜めたが、続けた。

「アンタ…テニス好きなんじゃないの」

やはり、勝郎は動かない。
瞬きを二度繰り返しただけ。

「テニス部に早く戻ってきて…」

リョーマの声は些か震えていた。

「レギュラーになるんじゃないの…?」

珍しくも声を張り上げるリョーマ。
勝郎は…表情を変えぬまま、泣いていた。

ただただ、ひたすらに目から涙だけを零していた。
そしてついに、崩れた。

ぎゅっと固く目を瞑った。

それでも、涙はどんどん溢れていく。
掠れた小さい声を立てた。


「僕だって…イヤ、だよ。テニス…やめたく、ない…よ…」


その弱々しい姿を見て、リョーマはなんだか嫌な感じがした。

まず一つ、自分の行動に対する後悔。
咄嗟だったし感情を取り戻させるためだったとはいえ、
あまり深く考えずに手を出してしまったこと。
傷付いて、苦しんでいるのに、更なる傷みを与えてしまったこと。

もう一つ、自分が前に予想したことが的中してしまったのではないかという不安。



もしかして、カチローの腕は。

右腕、は――…。



「リョーマくん」



勝郎の声に、リョーマは顔を上げた。
自分が拳を強く握り締め俯いていたことに気付いた。
視線を合わすと、逆に勝郎の方が逸らした。

少々の気まずさを感じながらも、勝郎は言った。


「僕…テニス部やめると思う」

「なっ!?」


リョーマは耳を疑った。
何しろ数日前に同じ場所に同じ人間から発せられた言葉の意味が、
全く正反対を刺す語だったのだから。

「カチロ…っ」
「…っく……ふっ…!」

リョーマが焦って声を掛けると勝郎はしゃくり上げていた。
(こんなに焦ったリョーマを見ることができるのも、珍しいであろう。)
肩を震わせ、息も途切れ途切れに泣いていた。

掛けてやる言葉が見つからず口を噤んでいるリョーマに、
勝郎はエヘヘ、と笑った。

涙を人差し指で救いながら、照れ笑いを浮かべて言う。

「情けないね…僕。人前でこんなに…泣いちゃって…」
「いや…」

リョーマは顔を少し横に背けながらそう言った。
率直な感想だった。

後から後から出てくる涙を拭う勝郎だったが、
リョーマには寧ろそれが羨ましいほどだった。
素直に感情を表せて、純粋な感性を持っていて。

いつの間にか物事を斜めから見るのが癖になっている身としては、
目の前で涙と戦うその者は、まるで輝いているかのように眩しかった。

まあ、そんなこと決して口には出さないけれど。


でもその光さえもが、闇に包まれようとしている。
それにはリョーマも耐えられなかった。


「カチロー、その腕って…」

「ストップ!」


勝郎は声を張り上げ、左手を前に出すとリョーマを制した。

その手に焦点を定めたリョーマは寄り目になり、
首を後ろに引きながら瞬きを繰り返した。
勝郎は「ごめん」と言いながら手を下ろすと、苦笑いで言った。

「それより先は…訊かないで。もしかしたら、リョーマくんもう気付いてるかもしれないけど」

間を置いたが、リョーマは何も言わなかったので、勝郎自身が続けた。

「僕も、昨日話を聞かされたばかりでさ、自分でもよく理解しきれてないし」

そこまで言うと、勝郎は黙った。
リョーマも何も言葉を発しようとしない。


部屋の中は静か。
外には小鳥の鳴き声。
こんな時も、世界はなんと平和なのか。

一度背中越しに見えたテニスバッグを確認すると、勝郎はその名を呼んだ。

「リョーマくん」
「…何」

その声に、リョーマも視線をそちらに向ける。
勝郎は少し下を俯き、リョーマを上目遣いで見ながら照れた笑みを浮かべた。



「一つ、お願いがあるんだけど」

「……?」





  **





数分後。

勝郎は青と白のジャージを身に纏っていた。
青学レギュラージャージSサイズ。
これはリョーマによって着古されているものだが、近いうちに勝郎がレギュラーになれば
(勿論、急激に成長したりしなければ)着ることになっていたかもしれないその同じ物。


「わぁ…やっぱりカッコイイね」


鏡の前に立って、勝郎は歓喜の声を洩らした。
Sサイズといえど、それでも少し大きめのジャージ。
自分はそれに憧れるがあまりで、テニス部に入った。

つまりはそれを着たことで、踏ん切りを付けようというのか。

「…ありがと、リョーマくん」

脱ぎ始める勝郎に、リョーマは立ち上がった。

「もういいの?」
「うん。アリガト」

笑顔だった。


ジッパーをリョーマに下ろしてもらっているその間(左手だけだとこんなことも難しい)、
勝郎は何も言わなかった。
リョーマも口を噤んでいる。

左腕を脱がした。
最後に右腕からジャージを落とした。

そのとき…やはり目に涙が滲んだ。


「カチロー…」
「ううん、大丈夫。僕もう泣かないよ」


袖で涙を拭って、カチローは笑った。
リョーマはなんともいえない気持ちでそこに立ち尽くしていたが、ジャージを鞄に仕舞った。

励ましの言葉一つ掛けることのできない不器用な自分を初めて恨めしく思った。
それでも笑い掛けてくれる勝郎が可哀想になった。


「それで…テニス部のことで話したいから、部長呼んでくれる?」


勝郎の頼みに、リョーマは荷物を持って立ち上がった。
あ、という勝郎の声で足を止めることになったが。

「やっぱり…大石副部長呼んでくれる?」
「…分かった」

なんで部長じゃダメなんだ?
という疑問が浮かんだが敢えて問わず、リョーマは部屋を出た。



ドアを開けた先は随分と雰囲気が違った。
皆の視線がリョーマに向かう。
暫く無言で立っていたが、大石の「越前…」という声で自分も口を開けた。


「大石副部長」

目が合った。
続ける。

「呼んでるっスよ」
「え、俺?」

戸惑った態度を見せながらも、大石は病室へ消えた。


ドアが閉まって、沈黙が現れた数秒後、
手塚の「ここにいるのもなんだ。場所を移そう」という言葉で待合室へ移動した。

待合室はシンとしていて、横の廊下をたまに看護婦さんがバタバタと掛けていくだけで、他は無音。
それに伴い、レギュラー陣も皆静かだった。
勝郎の様子を訊きたそうな者も数人居たが。
(妙にキョロキョロしてる桃先輩とか。たまーに視線を送ってくる海堂先輩とか。
 特に何も言わないけど部長とか。)

皆、気にはなってはいるのだ。
それでも、黙っていた。



数十分後に大石が帰ってくるまで、皆、黙っていた。

リョーマはただ、窓から見える花のない梅の木に留まった鳥を見ていた。

























こっちの方が流れ的に自然なので大石編の後半と順番入れ替え⇔。


2004/05/25